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菊沢地区内の町名

菊沢地区内には、11の町名があります。それぞれの町名がどうしてつけられたのかについてご紹介いたします。
なお、この資料は、子どもたちが郷土への愛着を持ち、それを踏まえて郷土のために努める人材が育つことを祈りながら と、1983年(昭和58年)発刊の「少年少女のための鹿沼の町名(著者 黒川常幸氏)」から抜粋させて頂きましたことをお断りいたします。

  1. 玉田町
    玉には美しいという意味があるので、よい田んぼ・美しい田んぼ、という意味でつけたのではないかといわれています。
    また、「タマ」に撓むの意味があるので、黒川が撓わんでいる まがっている土地ということからつけられたとか、「タマ」にはたま溜るの意味があるので、水がたまって湿地になっていた土地ということで名づけられたとかいう考えがありますがはっきりはしておりません。
    *撓む(たわむ)
  2. 見野
    野原の野に、美しいというほめことばをつけて美野としたのが、のちに見野にかわったという説があります。
    また、丘陵地(なだらかな低い山地)を意味する「ミノ」という古いことばからきているという説もあります。古い書物には、美濃という文字が見られます。見野には喜久沢神社があります。
    喜久沢神社
    南北朝時代(1336から1392年)(京都と吉野にそれぞれ朝廷があって争っていた時代)に南の吉野朝廷で高い位についていた藤原藤房は鹿沼の菊沢の土地にかくれ住んでなくなりました。
    明和4年(1767年)に藤房がすんでいたといわれる近くの山が大雨でくずれました。そのとき藤房のものだと思われる鏡や仏像などが見つかりました。
    弘化4年(1847年)に村人たちが、山くずれのあったところを平にして社を建て、藤房を祭りました。
    明治5年(1872年)に土地の名前をとって喜久沢神社としました。
    *藤原藤房(ふじはらのふじふさ)
  3. 下遠部
    沼地をあらわした古いことばに「戸部」というのがあります。下遠部はこのことばがもとになっているという説があります。
    また、アイヌ語で沼や川をあらわす「トベツ」ということばがもとになったのではないかという説もあります。むかしは上遠部もあったといわれています。
  4. 富岡
    「トミ・オ・カ」とわけて、「トミ」が崖地、「オ」が高いところ、「カ」がところをさしていて、「崖地のある高いところ」の意味だという説がありますがはっきりしたことはわかりません。昭和の合併のとき、武子の一部も富岡にはいりました。
  5. 武子・下武子町
    武子は、むかしたけし武士と書いていたといいます。「タケ」が多気とかかれて崖の意味があるということですから、崖のある土地の意味ではないかという説があります。
    昭和の合併のとき、武子の一部が一つの町となって下武子町ができました。武子の南の方にあるところから下の字がつけられました。
  6. 古賀志町
    昭和32年に宇都宮市古賀志町の一部がわかれて鹿沼市になりました。
    むかし古賀志を古加志と書いたものは残っています。
    宇都宮市の城山西小学校の南東に、日吉神社がありますが、この神社は、以前は古賀志山のすぐ下にあったそうです。そのころこの神社に古い樫の木があったことから土地の名を古樫と呼んだのが、のちに今のような漢字になったということです。
  7. 高谷
    新潟県から東北地方にかけて、新しく田んぼを作った土地に「コウヤ」の地名が多く見られます。
    「コウヤ」は漢字では、興屋、興野、耕谷、荒野、高屋、幸屋、小屋、古屋、そして高谷などさまざまに書かれています。
  8. 仁神堂町
    昭和の合併のとき、武子の一部を仁神堂町とよんで一つの町としました。この地名はまえからあった地名です。
    アイヌ語で曲がった川を「ヌタプベ川」というそうです。この土地を流れる武子川をさしたのではないかといわれています。ヌタプベがニガミドにかわり、仁神堂の漢字があてられ、にがみどうとなったのではないかという説があります。
    また、別の説に、やはりアイヌ語の糠部から「にがみど」になったのでではないかという考えがあります。仁神堂町には、糠塚山とよばれる丘があることから、この考えも調べてみる必要があります。
    *糠部(ぬかのぶ)
  9. 栃窪
    「トチ」は栃の木だけでなく、ドングリやクヌギの木をさす地方があります。
    「クボ」はくぼんだ低い土地の意味のようです。トチ・ドングチ・クヌギなどの木の生えているくぼんだ土地の意味でつけられたようです。栃久保と書かれていたこともあります。
    木喰上人と木喰仏
    栃窪には薬師堂があります。木喰堂とも呼ばれています。ここに木喰五行上人が彫った薬師如来をはじめとする十五体の木像が残されています。
    如来というのは仏さまをうやまっていったことばです。薬師如来は人々の病気や災難を救う仏さまだといわれています。ふつうは左手に薬壷をもっていますが、栃窪にあるのは、両手でかかえるようにしてもっています。薬師如来には、わきに並ぶ日光、月光の二つの菩薩像と十二神将がいっしょになってまつられているのがふつうです。十二神将は、姿をかえて修行をしているさまざまな仏の守り神です。十二支(ね・うし・とら・う・・・)に、ちなんでいますから、刻(時間)を守る神にもなっています。
    木喰五行上人が彫った中で、このように十五体がそっくり残っているのはここだけです。
    木喰五行上人(行道ともいっています)は享保三年(1718年)に今の山梨県に生まれました。上人は木食観海上人のもとで木食戒という修行に入ります。四十五歳のときです。木食戒というのは、五穀(米、麦、粟、豆、きびまたはひえなど、そのころの主な五つの穀物)や火を使って料理したものを食べないというちかいを立てて実行することです。
    上人はこれを死ぬまでつづけました。上人は安永二年(1773年)五十六歳のとき、日本国中をまわる旅にでます。北海道に渡ったあと、安永九年の九月二十一日に、ここに立ち寄り、五ヶ月間とどまって薬師堂をたて、仏像をきざみます。薬師如来像は、十二月八日に完成しました。そして次の年の二月二十一日にここを出て、佐渡にむかいます。この十五体は、六十三歳のときのものですが、作品としては、はじめのほうのものになります。
    上人は、その後、四国から九州までも旅をつづけ、九十三歳でなくなるまでに千体以上の仏像を残しました。
    栃窪の木喰仏を発見したのは柳宗悦という人です。上人が書きのこした「トチクボムラニ ヤクシ ジュウニジン コンリュウ」を手がかりに栃窪にきてたしかめたのです。大正十二年のことです。
  10. 千渡
    千渡の家の集まったところはもとは山のふもとにそったところだったようです。山のふもとの道 山道 から名づけられたようでです。江戸時代には千度という文字があてられていた記録ものこっています
    *山道(せんどう)

 


掲載日 平成22年10月28日 更新日 平成29年1月10日
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