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鹿沼市の城 1「諏訪山城と諏訪山北城 (鹿沼市深程)」

読者の皆様は、鹿沼市にかなりの城があったことをご存知だろうか?
城といっても、天守や高い石垣を持った城ではない。
それより以前に作られたと考えられる「土の城」である。

鹿沼市では既知の城の集大成として、平成14年「鹿沼市の城と館」が刊行されている。
行政の区域が現在とは異なっていたが、これによれば鹿沼市には、伝承、推定を含め50ほど城があることになっていた。

しかし、この本の発行後も幾つかの新城が発見されている。
本コラムはそれら新発見の城も含め、鹿沼市の魅力ある城々を紹介していきたい。
紹介と言っても、本コラムでお話することは城の歴史や築城者の話に主体は置かない。
あくまでも「城」そのものに焦点を当てたいと思う。
所謂、城の構造を意味する「縄張り」である。
あくまでも筆者の私見であり、先述の鹿沼市の刊行物とは異なる論述もあるかもしれないが(むしろその方が多いが)、ご容赦願いたい。

また、城の近傍に気にいった「名所」「食」情報もあれば、簡単に合わせて紹介したいと思う。
なお、本コラムを見て城を訪ねる方もいよう。

しかし鹿沼の城の多くは私有地である。
立ち入りには、本来、所有者の許可などが必要であろうが、その方を見つけることも難しい。
見学したい場合は最低限のマナーとして、必ず近くにいた地元の方に一声掛けよう。
大抵の場合は快く受け入れてくれるはずだ。
会話の中で、思わぬ情報の副産物を頂ける場合もあるので、必ず行っていただきたいものである。(地名、伝承など)
さて、第1回目の今回は、鹿沼市深程の諏訪山城と諏訪山北城を紹介したい。

写真(1)-諏訪山城縄張り図
諏訪山城縄張り図

諏訪山城は、佐竹氏の援助を得た北の宇都宮氏に対し、皆川氏が作った城と言われ、そのバックには、後の関東の覇者、小田原の後北条氏がついていたとされている。
その影響か、諏訪山城の縄張りも非常に緻密である。

後北条氏の城の縄張りは、お城ファンの間では非常に技巧的な事で知られているからだ。
写真(1)では緑色を堀、黄色で土塁を表現しているが、山を断ち切るような堀がたくさん配置されていることがお分かりになると思う。
主郭(本丸)は図の右端の最高所になるが、ここへたどり着くために、堀を幾重にも配置し、敵に攻め込まれにくいように工夫している。
また、登城路も直線的な道を避け、何度も曲がらせる複雑なルートにしている。
こうすることで、城を攻めてくる敵への攻撃のチャンス(時間)を増やそうとする意図である。

写真(2)-諏訪山城の堀
諏訪山城の堀

さて、筆者は諏訪山城の調査過程で新たな城を発見した。
それが諏訪山北城(筆者呼称)である。
地元の聞き取りはできていないが、筆者が知る限り、この城の存在は当時まで町史(旧粟野町)にも掲載されず、城郭専門書などにも存在が知られていなかった。
諏訪山北城は諏訪山城の北方約500mの山にある。

写真(3)-諏訪山北城
諏訪山北城

諏訪山城よりかなり距離を隔てたところにあるのだが、城の構造から察するに、諏訪山城と築城者は同じと考えている。
岩盤に守られた主郭(本丸)は圧巻で、城の至るところに見事な城門の跡(枡形虎口※1)が残る。

図では諏訪山城と同様に堀を緑色で示しているが、山の鞍部(あんぶ)、尾根筋、谷筋、山腹に配置され、周囲の山全体を要塞化している。
図では山頂部を「山頂部主郭」と表現しているが、ここは面積も狭く、物見、監視の場所であったと考えている。

写真(4)-山頂主郭直下の岩塊と鞍部の堀切
山頂主郭直下の岩塊と鞍部の堀切

実際の城の中枢部は山頂ではなく、山と山の鞍部の広い空間「鞍部主郭」であったと考えられる。
生活の場としてはある程度の広さの居住空間が必要であり、この鞍部主郭にたどり着くまでに、諏訪山城同様、幾重の堀、城門(虎口)を通らないと到達できないようになっているからである。

これら2つもの大きな城が存在することから、この一帯でなにか大きな緊張状態があったことは間違いない。
それが一体何なのか、筆者には考察できていないが、そのようなところに鹿沼市深程一帯は、歴史のロマンを感じる地域なのである。

※1土塁などで枡形状に囲まれる空間を造り、そこに敵を追い込み、城内側からの攻撃を可能にした城門のこと

写真(5)-場所
場所
 
ライター 縄張りくん

掲載日 令和3年4月8日 更新日 令和3年5月7日
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