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鹿沼市の城4「加園城(鹿沼市加園)」

図(1)-加園城縄張り図(上が北)
図(1)-加園城縄張り図(上が北)

第四回目は、加園(かぞの)城を紹介したい。
加園城は石灰採掘場で破壊されているものの、残っている部分は非常に見ごたえのある城だ。
筆者は調査当時、この石灰採掘場の方にお断りして、登城させて頂いた。
しかし最近のネット情報をみると、見学用の駐車場と登城路が整備されたようだ。
しかも、現地の解説案内板として、筆者の縄張り図も設置されている?・・ようである。

■主郭
円形の曲輪(人工で作った平坦地)であり、周りには土塁が巡る。
特に西から北に向かって土塁が高くなっている。
最西端の土塁は幅も有り、“矢倉台”だったと筆者は考えている。
主郭内には井戸跡もしっかり残っている。
井戸跡には石が散在することから、石組み井戸の可能性がある。

図(2)-主郭と二の郭間の木橋
図(2)-主郭と二の郭間の木橋

主郭の南には、土塁が切れている部分がある。
二の郭側からは、それに呼応するように細長く曲輪(人工の削平地)が伸びてきている。
高低差が少ないことから、ここには木橋が掛けられていたと考えられる。

■二の郭
その木橋の懐からは、細長い土塁が発生する。
土塁は襟巻のように、主郭及び二の郭全体をぐるりと囲んでいるのがお分かりになると思うが、非常に壮大な遺構である。
二の郭から外部に出るには、西側の土橋(堀などで挟まれてできた土の橋)で対岸に渡る。
対岸に渡り切った所に小スペースがある。
ここは「馬出し」と呼ばれる施設と筆者は考えている。
今回はこの「馬出し」について説明したい。
図(3)のイメージ図をご覧頂きたい。

図(3)-馬出しイメージ図
図(3)-馬出しイメージ図

“馬出し”はメインの城門を直接攻撃されないよう、その手前に施される施設だ。
ここにワンクッション置く事によって、メインの城門を堅固にできるというわけだ。
この“馬出し”は、城郭研究者の間で様々な様式が事例として紹介され、どのような条件を満たしていれば“馬出し”と呼べるのか、意見が定まっていない所がある。

写真(1)-加園城の土橋、その先が馬出し
写真(1)-加園城の土橋、その先が馬出し

ここでは、筆者の考えとして、メインの城門に対して橋頭堡的な役割(きょうとうほ・橋を守るために築いた堡塁)を持つスペースはすべて“馬出し”と考えたい。
さて、加園城の場合、この“馬出し”からは南北に土塁、通路が延びている。
南側は石灰採掘で破壊され、その先がどうなっていたかわからない。
北側は山を下り「西郭」方面に向かうようになっている。
この西郭に向かう道に、面白い遺構があるので、次に紹介しよう。

■西郭方面
図(4)-登城路
図(4)-登城路

“馬出し”から西郭へ向かう途中に図(4)のような遺構がある。
主郭下の土塁が切れて、竪堀状の溝・赤(1)が下方に向かっている。
さて、石灰採石場方面から上がる登城路については、市の刊行物(※1)では、赤(2)の破線とし、二の郭へ向かう、としている。
しかし、筆者は赤(1)の竪堀状の溝の方が登城路としてふさわしいと考えている。
理由は、こちらのほうが周囲の土塁から、黄色矢印方向に矢や鉄砲などで敵を攻撃できるからだ。
また、赤(1)が登城路であれば、主郭直下の矢倉台や主郭最西端の矢倉台も、ルートに対し非常に攻撃的な位置となる。
以上より、石灰採石場方面からの登城路は、赤(2)ではなく、赤(1)と考えたい。

写真(2)-竪堀状の溝(登城路と考える赤(1))
写真(2)-竪堀状の溝(登城路と考える赤(1))
 
さて、この登城路まわりに、もう一つ紹介したい遺構がある。
それは「武者隠し」だ。

図(5)-加園城武者隠し部
図(5)-加園城武者隠し部

“武者隠し”とは、土塁で囲んだ曲輪の中に、兵を潜ませておく施設だ。
当然のことながら、この構造は、登城路横に設けられることが多い。
その役目であるが、攻城側兵(敵)は登城路を下から上に登ってくるので、“武者隠し”に潜む城内兵は、まず見えない。

図(6)-武者隠しイメージ
図(6)-武者隠しイメージ

城内側兵は、攻城側兵(敵方)を引き寄せたところで、突如攻撃を仕掛けるというわけだ。
敵方は突然の攻撃に慌てふためき、統率、戦意が失われるだろう。
“武者隠し”は現状遺構で見ると、堀によく似ているのだが、目的が堀の「遮断」に置いた物ではなく、「攻撃」に重きを置いた物と捉えて頂きたい。
土塁が周囲の物に比べ低い事も、その特徴と言える。
繰り返しになるが、この“武者隠し”のような、非常に凝った施設が有効的に使える事からも、石灰採石場から上がってくる登城路は赤(1)だと筆者は考えたい。
二の郭へ向かうルートは赤(2)ではなく、図(4)の青線のルートだったのだろう。

写真(3)-登城路付近石垣
写真(3)-登城路付近石垣

最後に、この城には石垣が多用されている。
写真(3)は、登城路にある石垣の写真で、明らかに人が積んだものと考えられる。
主郭の井戸跡も石が積まれていた。
ということは、今は土に埋もれてしまっているが、発掘をすれば、かなりの石垣遺構が顔を出すかもしれない。
ちなみに加園城は、戦国期に渡邉氏が築き、その情勢において従属先を変えていたようだ。
時代の流れに従わざるを得ない地方武士にも関わらず、加園城には馬出し、武者隠しなど、高度な築城技術が施されている。
いったい渡邉氏はこれらの縄張り手法を、どこから仕入れたのだろうか?
加園城は、後世の石灰採掘によって削り取られ、大きく変貌してしまっている。
それは縄張りだけでなく、城の歴史までも、深くえぐり取ってしまった様な気がしてならない。
 
※1 鹿沼市の城と館(鹿沼市業書7)2002年鹿沼市史へんさん委員会
※2 筆者は城に関するホームページを開設している。
乱暴なホームページではあるが、興味のある方は是非ご覧いただきたい。
URL:http://saichu.sakura.ne.jp/tochigitop.html(新しいウィンドウが開きます)
 
図(7)-城の位置(国土地理院地図)
 図(7)-城の位置(国土地理院地図)
 

ライター 縄張りくん


<編集部より>
本コラムは、趣味として長年、城の構造(縄張り)を調査している縄張りくんが、鹿沼市の魅力の一つとして、市内の縄張りを紹介してくれています。
あくまで、縄張りくん個人の見解に基づくものですので、ご承知おきください。

掲載日 令和3年8月2日 更新日 令和3年8月4日

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