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鹿沼市の城5「粕尾城(鹿沼市中粕尾)」

さて、第五回目は粕尾城を紹介したい。
粕尾城は、“小山義政”に関連する城郭である。
下野守護で勢力を伸ばした小山義政は、鎌倉公方足利氏満と対抗し、反乱を起こした。
これが「小山義政の乱」(1382)である。
結局、義政は追い詰められ、この粕尾城が終焉の地となったと言われている。(※諸説あり)

写真(1)-粕尾城を臨む
粕尾城を臨む

彼の正室芳姫は、義政に戦の直前に離縁され、実家に戻される。
しかし、彼を慕う気持ちから芳姫は粕尾城を目指すが、思いむなしく近くの谷倉山あたりで殺されてしまう。
そのような悲話も残るのが、粕尾城である。

図(1)-粕尾城縄張り図
粕尾城縄張り図
 
さて、図(1)を見てお分かりになろうが、北海道の五稜郭を想像させるヒトデ型の縄張りである。
これは全くの偶然で、城域に谷部を取り込んだことにより、このような形になったのだと思う。
 
■主郭部
図(1)では「主郭か?」と記載してある祠のある場所が、城の最西端・最高所である。
しかし、主郭にしては少々手狭く、筆者は周囲の2~3段目の曲輪も含み「主郭部」としていたのだろうと考えている。
主郭部周りのみに、細かい堀切や竪堀が施されていることも、その証拠になるかと思う。

■外周の切岸と空堀
さて、冒頭でお伝えした五稜郭のような外周であるが、それを形作っているのが切岸(人の手で作られた段々)である。
この切岸にそって、空堀が伴っている。
ただし空堀は、北、東、南面に存在し、西面のみ無い。
その理由は、西面のみ急崖であることが考えられる。
また、現在県道が通る城の西側は、川、またはその氾濫原だったとも考えられる。

写真(2)-外周部堀と切岸
外周部堀と切岸_1
外周部堀と切岸_2

要は、もともと城の西側は、川が堀代わりとなっている為、わざわざ内部に空堀を作る必要が無かったのだ。
 
図(2)粕尾城周辺地形図-国土地理院地図より
粕尾城周辺地形図-国土地理院地図

現在の県道が昔は無かったと考えれば、かつて粕尾城を通過する街道は、図(2)の薄ピンクの道であったと考えられる。
薄ピンク色の道は、粕尾城を舐めるように這っていることから、粕尾城はこの街道を監視するために作られたと考えたい。

写真(3)-館の泉・大手口
館の泉・大手口

また城の東側に「館の泉」と称し水源があるが、城の守りもこの方向だけ開放されている。
それは、想定される街道筋に大手(城の正面) を設けていた為であろう。
 
ヒトデ型、五稜郭型の粕尾城。
この城は街道を監視するため、そして、敵が街道方向から攻め込んでくる事を想定し、必然的また偶然的に、この形になったのだ。
 
※筆者は城に関するホームページを開設している。
乱暴なホームページではあるが、興味のある方は是非ご覧いただきたい。
URLは、http://saichu.sakura.ne.jp/tochigitop.html(新しいウィンドウが開きます) である。

 
ライター 縄張りくん


<編集部より>
本コラムは、趣味として長年、城の構造(縄張り)を調査している縄張りくんが、鹿沼市の魅力の一つとして、市内の縄張りを紹介してくれています。
あくまで、縄張りくん個人の見解に基づくものですので、ご承知おきください。

 
 

掲載日 令和3年8月21日

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