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高家旗本と近世鹿沼の人々〔下〕幕末・維新の鹿沼と高家

幕末・維新の鹿沼と中条氏、畠山氏

近世鹿沼の一部を領し、幕府内で儀式典礼や朝廷との交渉など高家の職務を担った旗本の中条(ちゅうじょう)氏、畠山(はたけやま)氏について、前回は旗本に対する鹿沼の人々の抵抗や世直し・村方騒動など農民たちのたたかいをお伝えしました。
 
最終回は、江戸幕府が滅亡に向かう中で、中条氏と畠山氏は幕末・明治維新の時代をどう過ごしたのか、戊辰戦争は鹿沼の人々にどんな被害をもたらしたのか、見ていきます。
 
幕末になり、幕府が朝廷との関係を重要視する中、中条氏で隠居していた前当主の中条信礼(のぶのり)が、文久2年(1862)12月に高家の職務に復帰します(1)。隠居の身分のまま高家に復帰したのは、第十四代将軍・徳川家茂が翌年2月に徳川将軍として229年ぶりとなる上洛を予定しており、信礼の経験が重視された人事であったといえそうです。
 
信礼は家茂に先立って上洛し、家茂の上洛中は将軍と天皇による賀茂神社参拝に従事しました。江戸に戻ってからは、高家の中で儀礼に精通した経験者だけが登用され、高家衆をとりまとめる高家肝煎(こうけきもいり)を仰せつけられています(2)。
 
慶応4年(1868)1月に戊辰戦争が始まると、信礼の養子で当主の中条信汎(のぶひろ)は、2月3日、明治新政府に帰順するために京都に向かいます(3)。途中、長野県和田峠で新政府軍の東山道鎮撫総督・岩倉具定(ともさだ)に拝謁し、3月12日に中条氏の出身である京都の公家・樋口氏に身を寄せます。養父・信礼も病をおして家族を連れ、3月22日に上京し、知行所の領有について新政府から認められています。
 

急ぎ京都へ向かった畠山氏

一方、畠山氏は畠山基徳(もとのり)が、1850年に病のため職を辞して以降、当主である畠山基永(もとなが)は年少であったため、高家の職務についていませんでした(4)。
 
『栃木県史史料編近世7』に収録されている下南摩村(鹿沼市下南摩町)や塩山村(鹿沼市塩山町)の村役人の記録によると、戊辰戦争の最中の慶応4年3月10日、基徳が畠山氏陣屋(栃木市嘉右衛門町)に入り、追って22日には当主の基永も陣屋にやってきたことがわかります。この際、基永の知行所入りにあたり鹿沼市域の知行所の村々は人足や馬を出しています。
 
ところが、3月29日頃、畠山氏は急きょ京都へ行き、新政府に帰順を届け出る必要があると判断します。下南摩村や塩山村の村役人の記録には、基徳がにわかに上京することになり、莫大な物入りであることや、塩山村から急な要員として3人を出し、うち1人は京都までお供することが記されています(5)。
基徳はいったん江戸に戻りますが、持病のため出発が遅れ、4月10日に江戸を出発し、閏4月6日に京都に着いています。
 

鹿沼の戦争被害を記した中条信汎

戊辰戦争で鹿沼近辺の村々は、宇都宮の戦争や日光・会津への軍勢の通行によって、旧幕府軍・新政府軍の双方から人足や馬の負担を強いられることになり、少なくない被害を受けました。
中条信汎は、知行所としていた鹿沼市域の上殿村、木野地村、下古山村、横倉村、千手村などが戦争被害を受けたため、明治元年(1868)9月に明治政府と東京府に対して領内救助のために借金を願い出ています(6)。

中条信汎の願書
▲中条信汎が提出した願書の記録(※)
 
新政府軍は梁田宿(足利市)にいた旧幕府軍を慶応4年3月9日に奇襲し、敗れた旧幕府軍は永野村、中粕尾村、下粕尾村を通り、鹿沼宿から徳次郎宿を経て会津に向かいます(7)。
 
信汎の文書によると、例えば上殿村には3月10日から日光・会津あたりに向けて、一度に約1000人ずつ軍勢が通行したといいます。上殿村の人々は荷物を継ぎ送りするための人馬を軍勢に差し出すことを断ろうとしますが、村中に火を放つと脅され、合戦に引き連れられた人や馬は、鉄砲によって数多くの負傷があったとしています。軍勢は通行のたびに民家に押し込み、金銀の多少に限らず奪い取り、もし断ると鉄砲で殺されるため、女子は山村へ隠し、家を明け渡したため、田畑を耕作することができなかったと書かれています。
 
信汎は、他の村々についても諸大名の帰国による通行が相次いだ上に、戊辰戦争で新政府軍の通行が昼夜あり、戦場に連れられた者の中には死者も出たことや、4月には風雨被害が相次ぎ、耕作の余裕がないことなどを記しています。
 
信汎の文書は、知行主の立場から知行所の被害状況を集約しており、鹿沼の人々が受けた戦争被害の一端を記しているといえるでしょう。
 

明治以降の高家はどうなったのか

さて、明治以降の高家はどうなったのでしょうか。
明治政府にとって、高家が従来担ってきた朝廷との交渉や諸大名に儀式典礼を指導する役割は、もう必要ありませんでした。
近世以来の役割を否定される中で、神社の宮司や軍人、写真師などに転じた元・高家もいるものの、没落してしまった一族もおり、足取りが明らかになっていない一族が多数となっています。
 
中条氏は、当主・信汎が明治以降、「中条厳彦」を名乗り、明治2年(1868)に天皇に供奉して東京に戻っています。また、隠居の信礼は明治4年に天皇陵の管理や調査を行う諸陵寮(しょりょうりょう)の権頭として京都まで出張しています。
 
畠山氏は、明治元年(1868)7月に本姓である「足利」を名乗ることを願い出て、以降は足利氏を名乗ることとなります。畠山基永は「足利木久麿」と称し、翌年12月3日にすべての知行所を新政府に奉還します。こうして旗本として有してきた鹿沼市域への支配権を喪失することとなったのです。

上殿町の様子
▲戊辰戦争で被害を受けた上殿村の現在(鹿沼市上殿町)


上・中・下と、鹿沼の一部を知行所とした高家について、実像と鹿沼の人々との関係をお伝えしてきました。
鹿沼の人々は、諸物価の値上がりによる生活難と、農民たちの世直し一揆や村方騒動への立ち上がり、そして中条信汎が戊辰戦争の被害に書いているような戊辰戦争被害のまっただ中で新しい時代を迎えていったのです。

 
ライター福田耕
 

(※)国立公文書館デジタルアーカイブより抜粋・引用

 
<註>
(1)黒板勝美編『国史大系続徳川実紀第四編』吉川弘文館、1991年、451頁
(2)同上、 471、574頁
(3)太政官「中条兵庫信汎本領安堵」『太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百六十七巻・理財・禄制六』国立公文書館デジタルアーカイブ、1868年、52番
(4)小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典第四巻』東洋書林、1997年、はたけやま
(5)栃木県史編さん委員会編『栃木県史史料編近世7』栃木県、1984年、320頁、333頁
(6)太政官「中大夫中条兵庫領内救助ノ為メ楮弊拝借ヲ請フ更ニ東京府ヘ出願セシム」『太政類典・第一編・慶応三年~明治四年・第百五十七巻・理財・収入及支出金処分二』国立公文書館デジタルアーカイブ、1868年、42番
(7)鹿沼市史編さん委員会『鹿沼市史通史編近現代』鹿沼市、2006年、13頁

 
※サムネイル画像デザイン=鈴木亜深氏

掲載日 令和4年3月10日

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