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高家旗本と近世鹿沼の人々〔中〕農民たちの闘い

高家の実像

前回は、江戸時代半ばから鹿沼市域の一部を知行所とした高家旗本の中条(ちゅうじょう)氏と畠山(はたけやま)氏について、日光への代参を中心にお伝えしました。
 
さて、高家といえば、『忠臣蔵』のドラマなどで、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)が朝廷からの使者の接待役であった浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)にわざと間違った作法を教えて、嫌がらせをする場面がよく描かれています。実際はどうだったのでしょうか。
 
例えば、享保2年(1717)に増上寺で行われた法会の際、天皇の使者・鷲尾隆長(わしおたかなが)が平伏すべきか尋ねたところ、高家・中条信実(のぶざね)らが正しく答えなかったため出仕を止められる処分を受けています(1)。
また、朝廷の使者を接待する大名は、作法について伺書を提出して高家から附紙を貼ってもらう形で指導を受けていたことがわかっています(2)。これは高家が儀礼中、多忙であったことと、接待役の大名との間で「教えた」「教えてもらっていない」という言い争いを避ける意味もあったと考えられています。
 
ドラマで描かれる高家と、実際の高家像にはギャップがあることをおわかりいただけるのではないでしょうか。
  

官位は高くても、財政は乏しかった高家

高家の特徴は、前回述べたように大名並みに高い官位を与えられていたものの、石高が低く、財政収入が非常に乏しいことでした。
『忠臣蔵』のドラマなどで吉良義央が、息子を養子に出した上杉家に財政的な援助を求める場面をご覧になったことはないでしょうか。
 
従来は義央の贅沢や我欲によるものと理解されてきましたが、吉良家の財政難の背景には京都への使者をたびたび務めるなど、高家の職務における過重な費用負担があったことが明らかになっています(3)。
 
吉良上野介
▲吉良上野介義央の木像(愛知県西尾市吉良町・華蔵寺蔵)=筆者撮影
秋月氏出身の中条信義(のぶのり)は、吉良義央の玄孫にあたる。
  

中条氏に対する村々の抵抗

高家特有の負担に加え、近世後期の下野国(現在の栃木県)においては、貨幣経済の広まりによって下層農民の没落と農村人口の大幅な減少が起こり、耕作放棄された土地の増大が旗本の財政基盤を切り崩していました(4)。
 
中条氏は、文化5年(1808-1809)に鹿沼市域の知行所7か村の年貢書き入れ(抵当)で代官貸付金を借用し、安政4年(1857-1858)には、「若殿様御大病、その外御臨時金」として7か村へ金70両と米36俵の上納を命じています(5)。
中条氏からの相次ぐ金銭要求に対して、文政13年(1830-1831)には7か村の名主が連印で、中条氏の家臣3人を名指しで罷免するように求めています(6)。村々は旗本からの金銭要求をてこにして、旗本家の人事に意見し、恣意的な支配に抵抗したのです。 
 

世直し・村方騒動と畠山氏知行所

幕末期になると政治の不安定化や物価の上昇が、人々の生活に大きな打撃を与えました。戊辰戦争のまっただ中である慶応4年(1868)3月末から4月にかけて、鹿沼をはじめ下野国各地で中下層の農民や都市の貧民層による世直し一揆が起こります。
 
世直しの参加者は、富裕層に困窮民の救済策を要求し、聞き入れられないと「打ちこわし」を行いました。世直しの要求は、「世均(よな)らし」にも通じており、身分や貧富の差をなくすものであったと考えられています(7)。
 
さらに彼らは帰村すると、村役人や富裕層に対して世直し的性格の濃い村方騒動を起こしています。
畠山氏の知行所各地でも次々と村方騒動が発生します。塩山村(現在の鹿沼市塩山町)の場合は、下層農民と上層農民の対立が激しくなり、下層農民らは、4月24日から連日集会を開きます。これに対して、上層農民21人は26日に、21人のうち誰かが押し寄せられた際は、速やかに防ぐことなどを決しています。
下層農民らは28日に、約50人が全員、蓑をまとって畠山氏の陣屋(現在の栃木市嘉右衛門町)に訴訟する“デモ”を敢行し、閏4月3日には円明院にて困窮者に米が配られています(8)。
 
粟野歴史民俗資料館
▲粟野歴史民俗資料館(鹿沼市粟野町)=筆者撮影
近代まで鹿沼の農民たちが使った農作業具などが展示されている。
 
 
このように世直しに参加した鹿沼の人々は、行動によって自らの要求を実現できると自信を持ち、村方騒動を展開していきました。一方、高家などの知行主たちは、戊辰戦争と一揆や村方騒動の多発の中で、急速に影響力を失っていくこととなります。
 
次回は、戊辰戦争が鹿沼の人々に与えた被害と明治維新以後、中条氏や畠山氏など高家はどうなったのかをお伝えします。

 
ライター福田耕
 

<註>
(1)高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬編『新訂寛政重修諸家譜第二十一』続群書類従完成会、1981年、94頁
(2)小林輝久彦「足守木下家文書『公家衆御馳走初中後之覚』について-高家吉良上野介への伺書-」公益財団法人大倉精神文化研究所『大倉山論集』第64輯、2018年、188-189頁
(3)小林輝久彦「江戸前期のある旗本の財政状況についての考察幕府高家吉良義央の場合」大倉精神文化研究所『大倉山論集』第62輯、2016年、180頁
(4)栃木県史編さん委員会編『栃木県史通史編5近世』栃木県、1984年、699頁
(5)粟野町編『粟野町誌粟野の歴史』粟野町、1983年、520頁
(6)同上※出典文献に月日の記載がないため、複数年にまたがる西暦表記とした。
(7)鹿沼市史編さん委員会『鹿沼市史通史編近現代』鹿沼市、2006年、5頁
(8)栃木県史編さん委員会編『栃木県史史料編近世7』栃木県、1978年、322頁、350-351頁
 
 
※サムネイル画像デザイン=鈴木亜深氏

掲載日 令和4年3月4日 更新日 令和4年3月10日

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