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高家旗本と近世鹿沼の人々〔上〕鹿沼の「お殿様」たち

実はたくさんいた鹿沼の「お殿様」

鹿沼の「お殿様」といえば、中世から近世初期の壬生氏が知られていますが、「壬生氏以降のお殿様は?」と言われると、思い浮かばない方も多いのではないでしょうか。
実は、近世の鹿沼市域には、大名や旗本、江戸幕府の領地が複雑に入り組んでおり、たくさんの「お殿様」がいたのです。
 
江戸時代の半ばに、幕府が年貢米の輸送や貯蔵の経費を削減するため、米による俸禄である「蔵米」(くらまい)の支給をやめ、旗本に徴税や行政、裁判権などを分与した土地「知行所」(ちぎょうしょ)を与えることにすると、鹿沼市域には旗本の知行所が増加します。
 
この中で鹿沼周辺に知行所を持ち、領主となった旗本に幕府で「高家」(こうけ)と言われる特殊な役職を担った中条(ちゅうじょう)氏と畠山(はたけやま)氏がいました。
 
高家とは、もともと「家柄が高い」という意味です。江戸幕府は、朝廷との交渉や典礼儀式にあたる専門家として、職務としての高家を整備していきました。高家でもっとも有名な人物は、元禄赤穂事件の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)でしょう。
高家には、武田氏や織田氏など武家の名族と、堀川氏や日野氏など京都の公家の子孫など限られた旗本だけが登用され、京都・日光・伊勢などへ将軍に代わって派遣されるなど活躍したのです。
 
近世鹿沼の一部を領した高家旗本にスポットを当て、今回は鹿沼とゆかりの深い日光への代参と農民たちに与えた影響などについて、お伝えします。  
 

高家としての中条氏、畠山氏の誕生

武家としての中条氏は、公家の樋口氏の出身で樋口信孝(のぶたか)の二男・信慶(のぶよし)が第四代将軍・徳川家綱より、500石を与えられ、御家人となったことからはじまります。
 
信慶の長男・信実(のぶざね)が元禄14年(1701)に高家となり、下野国都賀郡・河内郡で合計1,000石の知行所を持つ旗本となりました。現在の鹿沼市域である口粟野村、下古山村、横倉村、木野地村、千手村、上殿村と、現在の下野市に含まれる下坪山村の7カ村に加え、1744年以前までは上府所村も知行所としていました(1)。
 
中条氏系図
▲高家・中条氏系図
 
畠山氏は、足利氏の一門であり、室町時代には将軍を補佐する管領に就くことができる家柄だったものの、戦国時代を経て衰退し、近世初期には300石の旗本になっていました。
転機となったのは、延宝7年(1679)に畠山基玄(もとはる)が高家になったことです。基玄は、第五代将軍・徳川綱吉から気に入られ、大名しか就くことができない側用人などの役職を旗本の身分のまま一時期務めていました。
 
現在の鹿沼市域である花岡村、上石川村、塩山村、野沢村、大和田村、下南摩村、佐目村などと下野国都賀郡に4,400石を与えられ、摂津国八部郡(現在の神戸市の一部)の知行所と合わせて5,000石の旗本となります(2)。畠山氏の陣屋跡は、栃木市嘉右衛門町にある岡田記念館として保存されています。
 
畠山氏系図
▲高家・畠山氏系図
 

江戸にいる「お殿様」に代わって、誰が実際の知行所を運営していたのか

鹿沼市域の知行主になった高家ですが、普段は江戸にいる当主に代わって知行所の運営を担ったのは、高家の家臣や村役人たちでした。
 
例えば、口粟野村は中条氏を含め、6つの旗本の知行地が配置されていましたが、1836年に行われた検地の際に、知行主自身が自分の持分について正確に把握できていないことがわかっています(3)。
 
中条氏の場合は、文政年間(1818~1830)に口粟野村名主・大貫武左衛門を上殿村、木野地村、口粟野村の兼帯取締役に命じており、実際の村政の大部分が村役人任せであったようです(4)。
 
 

高家の日光代参と知行所の農民たち

高家の特徴は、石高こそ数百石から数千石程度で低いものの、大名並みに高い官位に叙任されていたことです。将軍の名代として天皇に拝謁することもありました。
高家の任務として、徳川家康の霊廟がある日光東照宮へ将軍家の名代として派遣される代参があります。日光には、正月と家康が没した4月、祭礼がある9月と、年に3回程度派遣されていました(5)。
 
では、高家の日光代参で知行所の農民たちは、どのような影響を受けたのでしょうか。
戦国大名・今川義元の末裔で、高家となっていた今川氏は、日光へ代参する際に知行所から農民たちを動員しています(6)。日光代参の場合、供連は宇都宮までは略式で行列し、それより将軍の名代にふさわしい供連で、東照宮に赴いたようです(7)。
 
日光東照宮
▲日光東照宮=筆者撮影
 
収入の乏しい高家にとって、将軍名代としての格式を整えることは大きな負担でした。中条氏や畠山氏もたびたび日光に派遣されており、派遣の際には鹿沼市域の知行所から農民たちが臨時的に動員されたと考えられます。農民たちにとっては、知行主が高家であるための独特の負担となっていたのです。
 
次回は、高家に対する鹿沼の人々の抵抗や幕末に広がった世直しについて、お伝えします。

〔関連記事〕
高家旗本と近世鹿沼の人々〔中〕農民たちの闘い
高家旗本と近世鹿沼の人々〔下〕幕末・維新の鹿沼と高家
 
ライター 福田 耕
 

<註>
(1)粟野町編『粟野町誌粟野の歴史』粟野町、1983年、336頁
(2)鹿沼市史編さん委員会編『鹿沼市史前編』第二編近世編、鹿沼市、1968年、196頁
(3)粟野町編『粟野町誌粟野の歴史』粟野町、1983年、302頁
(4)同上、336頁
(5)福井那佳子「今川氏の知行所支配」大石学監修・東京学芸大学近世史研究会編『高家今川氏の知行所支配』名著出版、2002年、110頁
(6)同上、120頁
(7)観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』吉川弘文館、1974年、112頁
 
※サムネイル画像と系図画像デザイン=鈴木亜深氏

掲載日 令和4年2月28日 更新日 令和4年3月29日

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