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建造物作者

磯辺儀左衛門信秀(いそべ ぎざえもん のぶひで)

近世中期以降、地方において宮大工から専門職として彫物師が独立しました。享保(きょうほう)11年(1726)に千手院(せんじゅいん)(千手町)に銘を残している田野辺村(現市貝町)の彫物師石原弥兵衛喜理など、社寺装飾彫刻の早い時期では彫物師の系統は一定していませんが、やがて鹿沼近辺では栃木在富田(とみた)宿(現大平町)の彫物師磯辺の系統によって、その大半が占められます。その初めは、安永(あんえい)3年(1774)に、城宝寺(じょうほうじ)(見野)本堂の欄間(らんま)に作を残す磯辺儀左衛門初代信秀です。磯辺の本家筋である儀左衛門系では、その孫兄弟である三代、四代が日吉神社(下南摩町)に作を残しています。彼らの末弟は日光五重塔の彫物方棟梁(とうりょう)となった後藤周治正秀(しゅうじまさひで)で、稲荷(いなり)神社(北赤塚町)の彫刻を手がけています。

磯辺儀兵衛(いそべ ぎへえ)

磯辺の分家筋は儀兵衛を襲名し、その祖である杢斎(もくさい)は久我(くが)神社(上久我)の彫刻を、二代儀兵衛隆信(たかのぶ)は今宮(いまみや)神社(今宮町)唐門(からもん)の彫刻を手がけています。

石塚直吉吉明(いしづか なおきち よしあき)・1795から1868

石塚二代直吉吉明は寛政(かんせい)7年(1795)に田沼町で生まれ、50歳の天保(てんぽう)15年(1844)頃、鹿沼に移住しました。弘化(こうか)の今宮神社大修理の際には、同3年(1846)の大羽目(はめ)の大作を仕上げています。また上石川の天棚(てんだな)彫刻は3年がかりの大仕事でした。神社彫刻では戸張町(とはりちょう)の星宮(ほしのみや)神社、草久(くさぎゅう)の姫宮(ひめみや)神社に作を残し、屋台彫刻では下田町(しもたまち)や戸張町のほか、今市市住吉町、日光市大工町、宇都宮市徳次郎(とくじら)町中町などを手がけています。檜刊亭(ひかんてい)を号とし、また榎廼門(えのきのもん)吉明を名乗る狂歌人でもありました。慶応(けいおう)4年(1868)、74歳で没し、上材木町宝蔵寺(ほうぞうじ)に埋葬されています。

神山政五郎(かみやま まさごろう)・1808から1892

郷土の彫物師神山政五郎は、文化(ぶんか)5年(1808)に、上久我(かみくが)の二反(たん)百姓の長男として生まれ、石塚直吉知興(ともおき)の弟子となりました。記録が判明している最初の作は、日向(ひなた)神社(上日向)社殿全面の彫刻で、天保(てんぽう)13年(1842)35歳の作です。しかし羽黒山(はぐろさん)神社(上河内町)本殿に残した彫刻が文政(ぶんせい)13年(1830)再建時のものであるならば、それは政五郎23歳の作となり、若くして豪壮な大作をこなしていたことになります。社殿彫刻では熊野(くまの)神社(上久我富沢)、小松(こまつ)神社(粟野町久野(くの))など、献額(けんがく)では加蘇山(かそさん)神社(上久我)、笠間(かさま)稲荷神社(茨城県笠間市)、天棚(てんだな)彫刻では河内町和久(わく)など、屋台彫刻では今市市春日町2丁目、氏家町上阿久津などに政五郎の作が残っています。政五郎の彫刻で特筆されるのは、小松神社などに見られる腰(こし)回りの四季農耕図です。一種の絵馬とも見ることができます。菊の彫刻に優れ、通称菊政(きくまさ)と呼ばれました。字(あざな)は彦徳(ひこのり)です。明治25年(1892)に85歳で亡くなっています。


掲載日 平成22年8月5日 更新日 平成28年11月14日
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