加蘇山神社
加蘇山神社
鹿沼市上久我にある神社。旧県社。祭神は磐裂命・根裂命・武甕槌男命、石裂大権現あるいは石裂山と呼ばれ古来山岳信仰の対象として信仰されてきた。標高879メートルの石裂山頂に摂社月山神社が、山の北側中腹に奥社が、山麓にはもと下宮であった本社がある。「下野国誌」には山の中腹に2か所の岩窟があって石裂・根裂神を祀るとあるが、これは南麓にある粟野町の賀蘇山神社のことであろう。社伝によれば、神護景雲年間に勝道上人が当山を開いたとする
「三代実録」元慶2年9月16日条に「下野国賀蘇山神社」に従五位下を授くとあるが、それが当社と粟野町の賀蘇山神社のいずれを指すかは決定しがたい。「皆川正中録」には、弘仁年間に空海が登山して天照大神を加え祀ったために、石裂山のことを・「大日の山」と称したとする。山頂の月山神社は天慶8年の建立と伝え、永承年中に源頼義が武具を奉納して戦勝を祈願し、下って天文(正か?)年間には皆川広照が深く信仰して神馬などを寄進したという(鹿沼市史)。永禄年間に久我常真がこの地を占拠して村名も久我と改め、社領なども横領したが、同8年に滅亡した。その際に社務所のほか古来よりの神職家である湯沢氏5家も兵火にかかり、神宝・古文書類が失われたという(旧県史3)。その後承応年間に、一品親王宮が日光山に入山した際、月山神社を再建し神職家を保護し再興した。文化11年、山上の本社に参詣するのが困難な人々のために、山麓に下宮を建造し、また、そこに神楽殿などの諸社殿を建立(同前)。明治維新に際して、石裂加蘇山神社を正式名称とし、明治10年郷社に列した。明治44年、従来の本社を奥社、下宮の地に新しく本殿を造営して本社とした。大正4年に県社となる。奥社への参道途中にある2本のカツラの巨木は千本桂と呼ばれ、樹齢1,000年(県天然記念物)。このほか山内には神木とあがめられている巨木が沢山ある。
(「角川日本地名大辞典」より)