鹿沼市の城19「新発見の城 北村城・北村南城【仮称】(鹿沼市上粕尾)」
鹿沼は城の宝庫である。
今回は第15回、16回に続く鹿沼市内の「新発見の城郭」である。
これから紹介する2つの城は、当方のホームページ※1への情報提供から現地を調査し、城跡であると判断した場所である。
管見の限り、両城ともに既刊の資料では全く紹介されていない。
本稿では便宜上、城の呼称を下記のようにさせていただいた。
1,北村城
2,北村南城
1,北村城
図1-北村城縄張り図
現場近くの土砂警戒地域の看板から字名を拾い、当城を「北村城」と呼称したが、字境でもあるようなので、もっと正しい名称があるのかもしれない。
さて、この城の存在は2018年頃に頂いた情報で知ったが、当時私は埼玉に居住していたため、宇都宮市在住の方に依頼して城として確認された。
昨年、筆者も栃木に復帰したため、現地に赴き、城であることを再確認している。
城跡は、山から派生する尾根を2つの堀切(山の尾根、峰続きを遮断する堀)で遮断する簡単な構造である。堀切の深さは低く、2m弱である。
各堀切は、西面が少し長い竪堀(山の斜面に沿っておろす堀。敵の斜面の横移動を防ぐ)になっている。
堀切で区切られた2つの曲輪(人の手によって削平された平坦地)があるが、南先端部が主郭(本丸)と考えられる。
主郭南側は林道として改変されており、往時はどうなっていたかは不明だ。
2つの曲輪には、どちらも北側に低い土塁(防御、攻撃のための土盛り)が設けられている。土塁上から木橋(堀を渡る木の橋)等が架かっていたかは、現在の遺構からは判断が難しい。
当然、この城の歴史は全く定かではない。しかしながら、仮説として城の位置づけを考えてみた。
(1)
北村城は、周辺の城々と連携した情報伝達の基地であった。
(2)
城の麓を走る県道15号線は、西に粕尾峠を抜け、足尾に達することができる。この道が、かつても使われていたとしたら、視界は西方向、南方向と限定されるが、街道の監視としてこの城が築かれた。
この2つの可能性を提示しておきたい。
写真1―北村城主郭堀切
2、北村南城(仮称)
図2-北村南城
2024年に北村城と同じく、筆者ホームページのお客様から、この城の情報をいただいた。新しい情報の場所は北村城の南、思川対岸の山である。
筆者は2024年10月12日に踏査を試み、ここも北村城同様、「新城」と判断した。
城は、北に突出する山の中腹の飛び出し部に構築されている。遺構は飛び出した尾根の根本部分を堀切一本で断ち切っている。
堀切は主郭側に土塁を設け、南に続く尾根と高さを合わせている。堀切の両端は竪堀となる。堀の深さは3mほどで、北村城よりも、堀幅・堀の深さがしっかりしている。
この城の主郭は堀切の北側と考えられるが、加工をしている様な部分もあるが、ほぼ自然地形といってよい。現在は木で覆われて視界が悪いが、木が無ければ眼下の県道15号線がよく見えただろう。
さて、堀切一本のこの城を作った目的は何だったのであろうか?
写真-2北村南城の土塁と堀切
ここで、1,北村城と2,北村南城が何を守っているのか考えてみた。
城を築くということは、何かを守るという事である。
両城とも、かなり川の上流であることから、思川の水運を当てにしたものではないと判断した。
仮説1
一番考えられる事は、北村城、北村南城に挟まれた道(現・県道15号)の往来監視ではないだろうか。
つまり、県道15号線は中世の時代も街道筋であり、ここを往来する人々の監視を、川の両岸から見守っていたということである。北村城、北村南城の両城があれば、この川筋は全方位見渡せるのだ。
また、両城は、思川の最も山深い所に位置する。ここから南東に進むと、やがて田園地帯が広がり、粕尾城・大塚城に代表される粟野谷の城郭群に達する。(下図参照)
図3-粟野谷の城郭群(国土地理院より)
推論の域を出ないが、粟野谷周辺で何か戦闘が起こったさい、敵が西方から攻め込むことを想定し、この両城が築かれた可能性がある。
北村南城が、堀切一本の暫定的で、陣城のように見える事も、その影響ではなかろうか?。
仮説2
また、可能性は少ないと思っているが、両城が同時期に存在しなかったと考える事もできる。
理由は両城の堀切の規模が違いすぎるからだ。北村城は割と恒常的な造りだが、北村南城は堀切1本の自然地形で、臨時色の強い構造だからだ。
仮説3
さらにもう一つ推論できる。
この城と粟野谷の城郭群と切り離す考え方である。
北村城・北村南城は、粟野谷の城郭群から約10kmとポツンと離れている。
実は、この城の西に「発光路」という地名の場所があり、昔は修験の場所だったらしい。寺社関連の人々が自衛のため城を築くことがあるので、この関係の城とも考えられる。
いずれにしても筆者の勉強調査不足で、史実や伝承、文書とは結び付けられていない。
15号線が往時からの街道だったがどうか含めて、検討の余地はまだまだある。
しかし、城が存在することは確かなことであり、その縄張り、位置関係からは以上のような推論ができるのである。
今のところ、筆者は粟野谷の城郭群と結び付け、
『北村、北村南両城は粟野谷の城郭群の西限境として築かれ、主な役責は城郭群の街道筋で西からの敵侵入監視を、思川の両岸からおこなっていた』
と考えている。
鹿沼の城は本当に素晴らしい。
────以上────
◆城の位置図(国土地理院より)
※1
筆者は城に関するホームページを開設している。
乱暴なホームページではあるが、興味のある方は是非ご覧いただきたい。
ホームページ名「帰ってきた栃木県の中世城郭」
URL: https://saichu.sakura.ne.jp/
※2
参考文献国書刊行会「図説栃木の城郭」余湖浩一・渡邉昌樹2024
<編集部より>
本コラムは、趣味として長年、城の構造(縄張り)を調査している縄張りくんが、鹿
沼市の魅力の一つとして、市内の縄張りを紹介してくれています。
あくまで、縄張りくん個人の見解に基づくものですので、ご承知おきください。
ライター 縄張りくん